ほっと一息

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2024.02.02

生物多様性を育む 「さとやま」を見直す

JA広報通信2011年2月号

●鷲谷いづみ(わしたに いづみ)

東京大学大学院農学生命科学研究科教授。生物多様性保全に関する幅広いテーマの研究を進めている。

著書に『〈生物多様性〉入門』(岩波ブックレット)、

『自然再生~持続可能な生態系のために~』(中公新書)などがある。

 

 

生物多様性は、有形無形のさまざまな恩恵を私たちに与えてくれています。その生物多様性が今、危機にひんしています。そこで近年、脚光を浴びているのが、日本の「さとやま」。人と自然が共生できる持続可能なシステムとして注目されています。生物多様性と、そして「さとやま」について考えてみることにしましょう。

生物多様性とは……  

健全な生態系を維持し、持続可能な社会を築くためのキーワードとして、近年よく使われるようになりました。「生物種の多様性」「同じ種の中での個性の多様性」「生態系の多様性」などを含む、地球上の生命活動に表れているさまざまな多様性を意味する言葉です。豊かな生態系は、私たち人間にきれいな水や空気を提供するなど、安全で快適な生活を保障し、衣食住に必要な資源を提供します。病気を予防したり治したりする医療品の多くは生物を原料にしたものです。さらに自然の風景など、精神を高揚させ満足感を与えるさまざまな刺激は、心身ともに豊かな生活を営むのに不可欠です。生物多様性は、こうした恩恵を、人間の社会にもたらす源泉でもあります。

 イラストのようにさとやまは、さまざまなタイプの樹林・草原・水路・水田・ため池など、異なる性質の生態系が多く組み合わさった複合生態系。生物多様性の保全に優れているのです。

 

 

生物多様性の危機 次々と姿を消していく 生き物たち

 人類が農業を開始し文明を築くことができたのは、完新世(沖積世。地質時代で約1万年前から現在まで)の例外的ともいえるほど安定した環境によるとされています。ところが、近年の人間活動は、その安定環境を大きく損ないつつあります。  2009年に『ネイチャー』誌に発表された研究論文(ロックストレームら29人の欧米の研究者による)では、完新世の環境変動範囲から見た安全圏からの逸脱という意味で、危機がもっとも進行している地球環境問題は「生物多様性の損失」であると結論しています。その根拠は、化石の研究から推定できる時代の絶滅速度(100万種のうち1年間に絶滅する種の数で表す)に比べ、近年の絶滅速度はその100~1000倍に増大していることです。

 レッドリスト(絶滅危惧種のリスト)に地球の哺乳類の2割、両生類の3割が掲載されている現状から見れば、近い将来に絶滅速度は、さらに1桁以上増加するでしょう。そのことが象徴する生態系の変化は、人間が必要としている生態系サービスの提供ポテンシャルを大きく損なうものと推測されます。

 

失われつつある恩恵 産業や文化の停滞すら 招きかねない

 地球上の全ての生物の共通祖先は、およそ40億年前に生まれ、極めて単純な微少なあわつぶのようなその原始的生物から、偶然と必然が積み重なり、さまざまな環境に適応した多様な生物が進化したのです。

 深海にすむ生物は、水圧の高い暗黒の環境で暮らすためのさまざまな特性を持ち、高山にすむ生物は、紫外線が強く、寒暖の差が大きく気圧の低い環境に適応しています。物理的な環境への適応に加え、花とその花粉を運ぶ昆虫の関係など、生物は関わり合う別の生物にも適応しています。

 それぞれが、物理的な環境にも生物環境にも見事に適応した生物の戦略(形質)は、それらを認識することができれば、私たちが何らかの困難な課題に直面したとき、的確な解決のヒントをそこから引き出すことができるのです。

 具体的には、生物模倣技術(バイオミミクリー)の産業利用が挙げられます。例えばゴボウの実が動物の体に付着して種子が分散される仕組みがマジックテープに、ハスなどの葉が水滴をはじく仕組みがハイテクの雨具に応用され、シロアリの巣は省エネ建築物の設計に利用されています。

 また、生物は、素晴らしい造形や色彩、動きで私たちを魅了し、芸術や文化の源泉にもなっています。生物多様性の損失は、「生命の知恵」「生命の技」「生命の作品」ともいうべき貴重な「情報」を、私たちが解明したり、模倣したり、楽しむ暇もなく、不可逆的に失わせてしまいます。過去・現在のみならず、将来の人々にもさまざまな恩恵を与える可能性を、人類史から見ればごく一部の短期的な利益と引き換えに失うことほど、愚かなことはないでしょう。

 生物多様性は、人間社会への直接的なサービス、生態系サービスの源泉でもあります。生態系サービスは、食料や燃料などの資源を供給するサービス、安全で快適な生活の条件を整える調節的サービス、喜びや楽しみをもたらす文化的サービス、さらにそれらのサービスを生態系の健全な働きのなかで調整する基盤的サービスに分類されます。欧米では現在、生態系サービスの経済的な評価が盛んです。

なぜ今「さとやま」なのか 人と自然とが共生できる システム

 生物多様性の急速な低下の主要な原因は、現代の「工業化された農業」と農地開発にあります。食料やバイオ燃料のために熱帯雨林や湿地が農地として開発され、そこでは農薬や肥料を多投入するモノカルチャーの生産が行われています。ところが、地域気候の改変を含んだ数々の環境問題を引き起こすこれら生産システムは持続可能とはいえません。伝統的なシステムにも学びながら、持続可能なシステムを新たに構築することがグローバルな課題です。生物多様性は、環境の総合的バロメーターでもあり、その損失をもたらさないシステムこそ、持続可能なシステムなのです。

 日本の里地・里山(さとやま)は、水田や畑(ノラ)とそれに付属するため池や水路、肥料・燃料・建材などを採集する雑木林や草原(ヤマ)が農業生態系の単位ともいえる空間の中に配され、生物には多様な生息環境を提供しています。また、植物資源の採集とそのための植生管理が「適度なかく乱」として多様性を高めています。ヒトの営みの場でありながら豊かな生物多様性が維持され、主要な物質循環の単位でもあるさとやまは、新たな持続可能なシステムをデザインする上で多くの示唆を与えています。2010年10月に開催された生物多様性条約のCOP10では、持続可能な利用のアプローチとして日本政府の提案した「SATOYAMAイニシアティブ」が採択されています。

 しかし、日本のさとやまの現状は厳しく、開発、管理放棄、侵略的外来種の影響などにより、生物多様性の損失が急速に進行し、その保全と再生は国内でも課題となっています。今、最も必要とされることは、地域の生物多様性の現状を地域の人々がしっかりと認識し、それを生かすために必要な実践を地域内外の人々との連携のもとに進めることではないかと思われます。COP10では、生物多様性をキーワードとして農業振興とさとやま保全・再生に先進的に取り組んでいる兵庫県豊岡市、宮城県大崎市、新潟県佐渡市の3市は、連携して交流フェアにブースを出し、水田やさとやまの意義を広く情報発信していました。

 


マジックテープの起源、ハイテク雨具の起源